SHORTCAT

頑張らないために、頭を使ってます。

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おそくなってもだいじょうび

3月末に会社を退職し、4月から独立をする。
4月に独立が迫ってるものの、あと2週間が本当に長く感じる。

「何かを待つためだけの時間は短いほうがいい」と誰かが歌っていた気がするが、真理だと思う。

残りの2週間、本当に長く感じて仕方がない。今の自分にできることはその時間が過ぎるのをただ待つだけで、コントロールができないことがとてもストレスに感じる。
逆にとらえれば、それだけ楽しみであるということなのだが、いかんせんいまの自分が、現状を変えるために無力で自信がなくなってくる。

とはいってもあと2週間といえば気付いたら過ぎているくらいの時間軸なので、憂鬱になることはないと頭ではわかっているんだけども。

今のうちからできることというのは、もちろんあるが、それに手がつかない。ただ、こういう時期は時々あるから、いずれ抜けるのだろうけど、その最中にある時、自分は一生このままの心理状態なのではないかと不安になる。不安の渦中にいる人にとっての前向きな言葉は、例外や逆説を強調するだけの記号となりえる。

俺の人生は明るくなるのだろうか。他者と比べて恵まれていると感じることは多々ある。ただ、他者と比べてどうかという判断軸がもろいことも知っている。具体的に何をすればいいかというと何となく思い当たるところはあるのだけど、想像がすべて現実にならないのと等しく、この心情も同じものなのだろうと思う。

まぁ、1か月後にはケロッとしている。はず。どうすれば目指す姿になりえるかということについては何となく想像がついているけれど、それが本当に実現するのかというところは別問題だな。不安になる。文字に起こすことで何となく不安が解消されればいいのだけど、それも期待外れに終わるかもしれない。仕事がいくつか受けれそうなのは恵まれている事。だけど、形にできるだろうか。本当に生活費を安定的に稼げるだろうか。もし稼げなくても何とかなるだけの貯蓄はあるけれど、CFがマイナスであることに俺はメンタルを保ち続けれるだろうか。自分の内面が崩れていくことが一番恐れるべきことで、やるせない気持ちになる。不安がいつも俺を支配しているような気がする。臆病で心配性だから。それでいて、他人と同じことをしたくないと思うのだからたちが悪い。他人と一緒の人生、他人よりも少しだけよい人生を目指すことがこれまで俺が選んできた道筋かもしれない。ただ、大学に入ったくらいから、他人より少しいいとかに興味がなくなって、他人とは違う、まったく自分だけのオリジナルな人生を求めるようになってしまった。その選択が今の時点の自分にとって、正解かどうかがわからない。まだ振り返った時に、100%の正解だといえない自分がいて、その自分に自信が持てないのだろう。でも自信が持てないことは人生を前に進めるために不要な要素だと思う。人生を前に進めるには自信を持つしかなくて、でも人生に自信を持つためには前に進んでいて自分が下した決断を正解だと心から思える状態を作るしかないと考えている俺にとって、デッドロックが生じているように感じてしまう。正解の決断なんてないから、決断を正解にするしかないとリバタリアンよろしく強い言葉や格言は常に頭の中には渦巻いているのだけどそれが自分を鼓舞することは非常にまれで、むしろ作用するのはドーパミンが正のフィードバックを描いているときにしか起こらなくて、負のフィードバックを描いているときに役に立たないのはドーパミンに頼りすぎるのはよくないと思う所以だと思う。むしろ、正のドーパミンが生じているときに加熱するようにドーパミンが投与されるのは、暴走が生じているように感じてしまう。心の風邪をひいているのだけど、これがいつからかかり始めたかというと、実は独立を意識し始めた時でかれこれ2か月近くなる。1年の間の6分の1が心の風邪にかかっている状態だと、人間の五臓六腑における1府が落ちている状態で、これは正常とは言えない。しかも、4月以降にそれが直るかというとじしんをもっていえすといえない。でもこうやって散文を書き出すと自分の脳が整理されるというか、まぁなんか生産している気持になるから気持ちが晴れるというか。自分にとっての最高の心の薬は何でもいいから生産をするということ、自分の中にある何かを外部に出すということで、自分の中にいる悪魔、病気、腐敗、腐食、底辺を供養できるようなきがして楽になる。がーーっと書いただけだけど、15分とかそこらで2000文字近くなった。こういう散文を定期的に外に出すことは重要なのかもしれない。一方で、宗谷って自分にとっていみのあることばかりを探して、自分が木津ついたときに癒す対処法ばかりを考えてきずつくことからにげているのかもしれない。だけどにんげんにはぼうえいほんのうがそなわっているからそれはしかたないのだとおもう。こうして頭を使わずに生産している気になれるのはもしかしたら自分の特性かもしれないと考えてみたりそれが何か意味をなすと思えないというそれらしい自己批判が頭の中にこだまする。いつか自分はなりたい自分になれるのだろうか、そしてなりたい自分にとはどういうものなのだろうか。他人にえいきょうされやすくてたにんのえいきょいうのつめあわせみたいなのがおれとすれば、たにんのえいきょうをはいじょしたじゅんすいむくなこじんというのはそんざいしているのだろうか。自分ら櫛来という言葉は誰にも置かせない絶対不可侵の神聖なる言葉のようで最近はここにさえもメタ的な視点からの意見が入ってあって言葉が窮屈になっているように感じる。有名税とは金銭のことだけでなくて自分の生き方そのものが税金としてかかってしまうこの世で最も大きなものだとするなら中小企業のおやじみたいに影響力もほどほどにしつつ節税のように影響力を大きくしすぎない、影響力を小さく見せることというのがこれからのインフルエンサーならびにsんsにかかわらう人々の賢いかかわり方なのかもしれないと思ったりもする。何も考えずにこうしてだらだらと長い文章を書いていたら頭が疲れてきて昼寝をしたくなった。今日は何も生産していないけど、涙は出ていないけどたぶん高尾k路が泣いている自分にとってはこれはたぶんだいじなぼうえいほんのうなのだとおもったりもする。そういえば数年前に書いていたブログを読み返して当時何を考えどう過ごすか何に悩んでイルカ何に対して死にたいと思うようになったのかが克明に描かれていたから昔のブログというのは自分にとって最高のコンテンツになるなと考えていて、つまり今こうやって書いているブログは五日の自分にとっての最高のコンテンツになると考えるとこの生産自体は最高の生産ととらえることもできるな。最高のコンテンツを制作するとしたらこんなにもだらだらと誤字脱字開業がない文章を書いていていいのかという気持ちにもなるがそれはそういう文章を書きたかった当時の自分というものを未来の自分に文章だけでなく文体で伝えるというある種本質的な情報提供と考えることもできる。俺は絶対に大丈夫だよと思う一方で本当に大丈夫なのでしょうかとささやきかけてくる悪魔も惜しくは天使の自分もいてその自分がいつかこうして書いた文章を見てこの時はいろいろと悩んでいたなぁと思える人生を歩みたいと書いたのはつかのまそんな文学的な思考が何の役に立つのだろうと資本主義的牧歌的人生を送れるとは到底思えない。こうして各駄文が多分脳のミラニューロンを抉り出すのだろうと思っている。なぜなら人の脳は論理的な意味のつながりでできているのではなく赤津違反者的に生じる言葉を口から出る直前で前頭葉が水際で文章に変化しているからでその役割を果たせるか否かが高アイキューか否かを分けるのだと思うな。低学歴の秋にと話しているときは本当に会話ができなかったしたぶんそういう人はこの世にごまんといる。そういう人は脊髄から生じた言葉の断片を勘定と一緒に吐き出すから何を話しているのかわからない。そして感情とはそれそのものが彼らにとっての目的だから問題を解決した糸など思っていなくて、とにかく脊髄から湧き上がってきた言葉をそのまま外界に出す心地よさだけでこれまでを生きている。だからこうして差がどんどん開いていくのだけど、周りにそれを指摘する人も田舎れば類は友を呼ぶとはことわざの中で数少ない本質をとらえたものなのでそれは真実で回りも脊髄から上がってきた言葉をそのまま感情とともに出す。そうするとそのコミュニケーションが当たり前になり意思伝達できる回数が増え、そのコミュニケーションが正であるというフィードバックを脳に与えドーパミン特にオキシトシンが生じてより強固になる。4月からの俺を見ててください神様それまでの自分は悩みながらも行きたいと願い僕のもがき苦しむ姿を喜劇だと思ってみててください。できれば4月以降の自分がどうなってイルカと今の自分がどうであるかを結びつけず別人というか別人種、別の生物だと思ってみていてください。会と人形が全くの別物であるのと同じように今の自分と4月からの自分が全くの別物、であることをどう紙見てみぬふりスノビズムを演じてください。