2020年2月1日〜7日に行ったタイ旅行にて、感じたことのまとめ。
ハプニング前回だったし、それを乗り越える上で気づいたこととか、それ以外のところでふと思ったことなどを書いていく。
ふと読み返して、そういえばこのタイ旅行で気づいたな、とか、次に旅行行くときにどういう変化・体験があるだろう?というような一種の基準としての記事になるはず。
ご多分にもれず、自分用の記事だ。
「なんとかなる」の条件
昔、パワプロのサクセスで、橘あおいが試合で活躍し、そのヒーローインタビューで「なんとかなると思うこと」が活躍の秘訣だと語るイベントがあった。
その当時はちょうど小学校5年生で虐められていた時期で、そんななんとかなるというようなおまじない程度で不幸が消え失せるはずがない、と、フィクション的に受け取っていた。
だけど、そういう状況で触れたからかもしれないが、なぜか心に深く残っているのも事実で、実際そのパワプロで覚えているエピソードはその「なんとかなる」のエピソードと、猛田の野球道具改造イベントくらいだ。
なんとかなる、という言葉は、自分の性格を隠すために使うことが多い。
ビビって動けない時とか、先の見通しが見えないときに、なんとかなるという言葉を使うことによって自分がサモ状況を楽観的に捉えているかのように振舞う。
し、実際になんとかなる時もあった。
「ね、だからなんとかなるって言ったでしょ!」というふうに誇らしげに回想することも多い。
だけど、なんとかならない時もあった。
なんとかならない時と、なんとかなる時の違いはなんなのだろうか。
それがこのタイ旅行にてうまく言語化、経験できた。
なんとかなる時→準備を怠らずシミュレーションを重ねた時。
タイ旅行の初日、飛行機に乗り遅れ、二日目以降の航空は前日に調べまくり、その上で、調べても対処できない問題を特定し(運要素というか、自分のコントロールできる範囲ではない問題)、その問題に対してようやく「なんとかなる」を使っても良い。
思えば橘みずきも、日頃の準備・練習を重ねた結果の「なんとかなる」だったのだろうか。
なんとかならない時→なんとかなるの言葉尻にとらわれ出たとこ勝負で挑んでしまう時
これは4日目のピピ島で仲良くなった女の子と、その夜また合流しようと思ったが、プランも決まっておらず、手持ちの現金も少なかったため、結局取りやめになった件から。
出たとこ勝負の「なんとかなる」は、なんとかならない。うまく進んだように見えても、その効用は低くなってしまう。
もちろん予測できないことはできない。だが、これだけネットに情報がある中で事前にわからないことはほとんどない。
そういう情報にしっかりアクセスして、やはり準備を怠らないようにすべきである。
なんとかなるかなんとかならないか事前には予測がつかない時→全く想像できず、想像するための材料もない時。
事前に準備を入念にして、その上でその場を迎えなければわからないということもある。
それに関しては、コミュニケーション能力が振り幅になる。
小手先のテクニック論がこう言った場合はものをいう。
小手先のテクニック論が役立つのはこういう場合のみで、基本的に準備を怠らず、当日の想像をすることによって、なんとかなるか、なんとかなるかなんとかならないかの判断がすることができる。
結論:準備は大事
移動距離は体験の効用にレバレッジをかける
タイに行くということは、その距離は4,312 km。
4000kmも離れれば、それはそれは日本とは全く違う様式や文化が存在する。
体験を大きくするために、距離をまずは考えるというのはかなり合理的であると思う。
海外で気が大きくなるのは人との関係の距離が遠いから
海外に行ったり、旅行先でつい旅先の人と話したくなったりするのは、その人や周りの人との関係の距離が遠くなるから。
自分にはそういう特性があると思う。
その人との関係の距離が近ければ、自分の評価を下げかねない行動を撮ってしまうこともある。基本的に自分の評価を下げないためには何も行動しないことが合理的。
だけど、旅行先、特に海外だと、その人との関係の距離は限りなく遠いことが多い。
旅先であった日本人も遠いと思う。
パーソナルスペースともいうのだろうか。自分自身がパーソナルスペースが大きい人が苦手というのも同じことが原因かもしれない。
ふとした空間で、例えば地蔵してしまうところなどで疑うべきは物理的な周りの人との関係の距離。
そういう関係の距離が近いから、ビビってしまうのだろう。
そのことをまずは認知しておく。
会話とコミュニケーションの違い
もう搾かすが出ないくらい議論されたりオピニオンされている題材だろうけど、タイ旅行で実体験として会話とコミュニケーションは違うということを感じたから書いておく。
会話というのは、話を会わすこと。だから言語力や論理性が必要になる。
一方、コミュニケーションは、意図を伝えることという感覚に近い。だから、英語を話せなくても、例えば地図があって指をさしながら「this!this!」と伝えれば、そこに行きたいという意思を伝えれるだろう。
また、タイで一番重宝した言葉は、I want とかI'd like toで、自分のしたいことを表す言葉。
やはり、自分がどうしたいかということを伝えれれば、相手が行動をしてくれる。それができればコミュニケーションは取れる。
だけど、よりその人との関係性を豊かにするためには、会話が必要だと思った。
自分が英語を勉強したいと思った由縁はここにある。
コミュニケーションは取れるけど、会話はできない。その人のもっとパーソナルな部分だったり、その土地の情報などを聴ける。
だから英語を話せるようになりたいと思った。たぶん、シンプルに人と話すことが好きなんだろう。
日本でしょうもない金を使うくらいなら海外旅行に行った
方が絶対にいい
これは、誰からどう見てもそうでしょう。当たり前のことを当たり前に行ったけれど、これも実体験が伴ってるから魂が入っていると思う。
タイの旅行で使ったお金は全部合わせて10万円程度。
それを考えると、10万円あれば東南アジアにはいける。
10万円なんて、1年禁煙すればお釣りが来る。
毎月1万円ためれば毎年いける。毎月3万円ためれば半年に一回いける。
それをすることくらいの価値はあると思う。
誰しもが起業家
タイでは至る所で屋台が並んでいた。
屋台のビジネスモデルはもちろん、お客さんが多ければ多いほど売り上げが上がる、給料があがる。
逆に、お客さんが一人も来なければ売り上げは当然ゼロ。
そのリスクをとることになる。
日本で起業というと、大事に聞こえる。だけど、タイでは多くの人が起業家だった。
屋台だって、立派な起業で、初期投資と損益分岐点が生きるか死ぬかの分岐になる。
タイの方が規制が少ないから起業家になりやすいのかもしれない。
ほとんどが許可を取らずにやっているのではないか。わからないけど。
そんなことお構いなしに、屋台を作ればいい。
多分、生きるのに必死なのだ。
そこまで多くの雇用がないのではないか。
だからこそ、自分でやるしかない、というような、当たり前の文化があるのだと思う。
その中から飛び抜けた結果を生み出したものが、10年後20年後の未来を作っているのだと思う。