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頑張らないために、頭を使ってます。

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答えていくべき問い

ここに、可変的でありながらサスティナブルな自分による問を残しておく。

 

使い方:

例えば、読書をする時に一緒に開く。

その時生まれた問い、読む前に疑問点を書く。そして、そこに朱を入れるように答えを書く。さらにまたそこから問が生まれるかもしれない。そうすればまたその問と答えを書く。

 

問いが自己複製をしていく。

そんな記事にする。

問いはなぜ重要か

情報の構造は、それ自体では自然に出来上がるものではない。

知性とエネルギーが注ぎ込まれて、完成する。人間が頭と手を加えて完成するものだ。数々の本やブログ、ツイッターの投稿に見ることができる。そこで初めて情報が構造を持つ。

 

問うて、答えが出ることは重要ではない。いや正確にいうと重要ではなくなった。

それはもちろん、Googleがうまれたから。答え自体に価値はないのだ。

より重要なのは、いま現在答えの出ていない問を生み出すことだ。

いい質問とは答えがまだないし、思考の新しい枠組みを生み出すものだし、知られているものと知られていないものの狭間を明確にするものだし、教養からしか生まれ得ない。

つまりこの記事において、いくつ答えたかよりも、幾つの問いを出せたかが重要になる。

人間はどこからきたのか

人間はいつからいるのか

自己を意識したのはいつか

人間はどこに向かうのか

どうすれば幸せになるのか

なんのために生きるのか

これは難しい質問だが、いまの自分には2つある。

想像以上にこだわる組織、文化、哲学を生み出すこと。

最高の問いに答えること。

後者はまだ解像度がひくい。最高の問いとはなんだろうか。

 

生物学的にいうと、遺伝子を増殖させるためだ。

自己複製子でもある。自らをコピーする。それが、物理法則のように、当たり前に生じていること、原理原則。そういう振る舞いをする。それが利己的と呼ばれる所以なのかもしれない。

なんのために生きるのか、においては、人間は遺伝子の一時的な乗り物であり住処であるが、その操縦者である遺伝子は自己複製しとしてコピーし続けるようにまっとうする。そこに意識・意志はなく、それが原理原則であるのだ。

 

なぜ国家を作るのか

国家とは、を一言でいうのは難しいだろう。もちろん、語義はある。

”国。一定の領土に居住する多数人から成る社会集団で統治権を有するもの。”

ただ、これだとわからない。統治権を有するために何が構成要素となっているのか。社会とは何か。領土とは何か。国とは何か。

そうしたものを改造するために以下の文章を書く。

国家を成り立たせる法律、法定、灌漑のシステム、学校、政府、図書館。それらは社会的な道具であり、人間が作り、人間を作る。可変でありサスティナブルな道具なのだ。

そうした意味で、今はその道具がすべてテクノロジーに変わっている。Googleフェイスブックが、図書館やコミュニティとしての役割を果たし始めている。

だからこそ、国家とはなにか、という問から国家はどうなっていくのか、につながる。

国家はどうなるのか 

GoogleFacebookなどが経済圏を作り、人間を統治するようになるだろう。リブラの誕生は、それを決定づける。Facebookのユーザーは、10億人を超えており、すでにいくつかの国家を合わせた数以上の”国民”を有している。

今はまだ逆風だ。しかし、20年経った時、Facebookが国となっていてもおかしくない。フェイスブックGoogle以上に国民一人一人を知っている国はあるだろうか?中国だって例外じゃない。

誰がいつどこでどのように食事を食べるのか。信仰している宗教は何か。誰と交際していて、最近いつセックスしたか。そんなこと、フェイスブックなら当たり前にしっているだろう。

そのFacebookが国を作ったら、たぶんいまの国家よりも良い政治を行うんじゃないか。

歴史はどうかわるのか

西洋の歴史は数百年に一度、転換が行われる。そして社会は数十年かけて次の新しい時代のために身繕いをする。世界観を変え、価値観を変え、社会構造を変え、政治構造を変える。芸術や技術を変え、機関を変える。やがて五十年後には新しい世界が生まれる。

この教会を超えた後の世代は、祖父母の生きた世界や父母の生まれた世界には想像することもできないものとなる。

その転換点こそが今であり、ポスト資本主義を論じる意義になる。

十三世紀のギルド(手工業同業者組合)が誕生し、遠距離貿易が復活。自給自足の農業中心の産業だったが、余剰生産物の増加に伴い、都市に手工業者があつまるようになり、文化の中心が地方の修道院から都市の大学が文化の中心となった。

その二百年後に、グーテンベルク活版印刷術(1455年)と1517年のルターの宗教改革が六十年の間に起こる。大航海時代、つまり資本主義の幕開けでありアメリカの発見や西洋におけるアラビア数学の普及が根付く。

次の転換点は1778年のアメリカの独立、蒸気機関の完成、そしてアダムスミスの『国富論』。その四十年後のワーテルローの戦いで終わり、全ての主義が生まれた。資本しゅ主義と共産主義、そして産業革命である、

そして千八百年代に入ると、初めての近代的大学であるベルリン大学が生まれ、普通教育が始まった。ユダヤ人の開放もここであり、ロスチャイルド家が王侯の影を落とすほどの影響力をもつようになり、ヨーロッパに新しい文明を開いた。

なぜ情報を集めるのか

気付いたらTwitterに1時間を捧げていた。

そんななら経験、誰にでもあるだろう。

でも、なぜ、自分とは全く関係のない人や世間に1時間も時間を投じてしまうのか。

原始時代、手元をボーッと眺めていれば、他の部族や恐竜に食べられてしまっていたことだろう。

 

その答えは、脳のドーパミンにある。人間は情報を本来的に望むのだ。

脳からドーパミンが排出されると、知的好奇心がわく。そうすると、外の情報が知りたくなるのだ。

 

 

なぜ意思決定を間違えるのか

福祉はどこからきて、どこに向かうのか

福祉のあるべき姿はどんなものなのか

マルクス主義社会とはなんだったのか

マルクス主義社会は、わずか数十年前にはポスト資本主義だと信じられていた。しかし、いま私たちはポスト資本主義になり得ないことを知っている。

 

ポスト資本主義とは

我々のほとんどは、あらゆる先進国が資本主義から脱していることを少なからず感じている。市場が、経済活動の調整役として有効に機能し続けることは間違いないが、社会としてはすでにポスト資本主義社会に移行している。急速に、ある一つの中核的資源を要しつつ、新しい諸階級を持つ社会となりつつある。

どう変わるのか

資源が資本や天然資源、労働から知識に変わる。

知識とは、プラトンソクラテス、そして道教禅宗の言うところの自己認識、自らの知的、道徳的、精神的成長。もしくは、プロタゴラス、または儒教の言う何をいかに言うかを知ること、である。

主張の違いはあれ、ここでの一致は知識とは効用、技能つまりテクネーではないのだ。

何が変わらないのか

なぜ資本主義はダメになったのか

資本主義の社会

資本主義の政治

資本主義の組織

資本主義の経済

資本主義経済における欠陥は、フローの最大化をすることを評価されることにある。つまりPLの増加こそが投資の対象であり、付加価値の合計であるGDPが重視される。

計画的陳腐化が認められる社会になる。すぐに潰れる消費財であったり、いけてない企業に紹介をすることで早期の転職を促すことのできるモデルの人材紹介であったり。

フローの最大化が短期的最大化であるなら、ストックの最大化こそが長期的最適化といえる。

ポスト資本主義の考え方の一つとして、時間軸を追加すると言う考え方が必要になる。

ROE至上主義の功罪

ROEとは、自己資本利益率。株主が投資してくれた資本に対しての利益をいくら出せているかを見るもの。

このROEだけを見ると、(売り手)株主がいかに喜ぶかのみが指標になってしまう。社会や買い手が愚かになっている。三方よしが株主よしになってしまうのだ。

ROE至上主義の流れは1990年代に起こり始めた。ちなみにその前はROA総資産利益率。その前はEPSで一株あたりの予想利益だった。

このように、重視される指標は時代とともにファッションのように変化する。ROEが重視されるようになったのは、ちょうど会社は株主のものとという風潮が強まったのと時をほぼおなじくしている。

もし、今やっていることをずっと継続すると言う考え方であれば、ROEを上げるという目標は理にかなっている。しかし、資本を熟成させ、利益は将来にやってくると言う経営方針をとるのは不可能になる。「今はないが将来作るもの」の価値を最大化するためには、ROE至上主義を今後の産業転換に適応させていかないといけない。

しかし、変わる兆しはある。ROEが重視された背景は、物理工業製品から知的工業製品への移り変わりの指標として謀り易かったためであるからだ。しかし、今後のIT産業は新しい段階に入り、必ずしもROEの高い企業が産業の主役になるとは限らないからだ。

どう言う問題が起きているのか

価値主義・公益資本主義とは